畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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かた りす さと と を口の中で繰り返えしたのだった。 マシュウ・フェル卿は、こうした夫人の態度に、平然としているわけではなかった。卿は陪審官の任務を終えると、教区の牧師といっしょに帰館したのであるが、その牧師ともこの事件を語り合った。裁判にあたっての卿の証言は、好んで提出したものでなく、また卿は、特に魔女見破りの狂癖に罹っている者ではないと言った。だが、卿は、向後もこの事件には、これ以上語るべきものはないし、自分が目撃した事実については、決して誤ってはいないと明言した。更に卿は言葉をつづけて、この処刑全般は、自分の本心には悖もっているものである、自分は周辺の人々の幸福を願う人間なのである、だが、賠審官がなすべき任務を思い、それを厳然と果したのだと言った。これはいかにも卿の真情であるようにみえた。で、牧師も、これに道理ある人の当然の行為として、賛意を表したのだった。 数週日の後、五月の、月まどかなる宵、牧師とマシュウ・フェル卿は、また荘園で会った。いっしょにホールへあるいて行った。フェル夫人は、その母堂が重態だったので実家へ行っていて、マシュウ卿は家に一人いるのだった。で、牧師のクローム氏は、ホールで夜食をたべるよう、しきりに勧められた。 マシュウ卿は、その晩は、大していい機嫌ではなかった。話は主として家族や教区のことに走ったが、これをよい機会に、卿は、自分の財産に関する希望なり意見なりを述べる覚書を作成した。この覚書は、後になって非常に大事なものとなった。 クローム氏が辞去しようと考えたのは、九時半頃で、マシュウ卿と彼は、館やの裏手の砂利を敷いた遊歩路で、ちょっと向きを変えた。その時、クローム氏をドキンとさせた唯一の事件は、こうだった。―二人は、筆者が、さきに、建物の窓のそばに生い茂っていると書いた、あのとねりこの樹を見やったのだが、マシュウ卿は立ちどまって言った。 『おや、とねりこの幹を、なんか駆けのぼったり駆けおりたりしてる。あれは栗鼠じゃあるまい。栗鼠なら今時分は、みんな巣の中で眠っているはずだ。』― 13 ―

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