若杉慧 -『エデンの海』から『野の仏』まで-

作品と活動

「エデンの海」−青春小説の金字塔

 「エデンの海」は昭和21年の「朝日評論」11月号に第1回、翌22年2、3月と3回にわたり掲載された。海に面した女学校を舞台に、青年教師南条と女生徒清水巴の恋愛をさわやかに描き、一躍人気を博した若杉慧の出生作であり代表作である。「エデンの海」の単行本は、昭和22年刊行の文化書院版(初版本)に始まり、雲井書店版、角川文庫版、講談社版、光風社版と、これまでに数社から刊行されている。特に角川文庫版は昭和26年の初版に始まり、昭和39年の第34版、昭和54年の改版9版等を当館でも所蔵しているように、何十も版を重ねた非常なロングセラーとなり、年月を経ても変わらぬ支持を受け続けたその人気の高さが伺える。

 また、本以外にも魅力ある素材として、これまで3度映画化され藤田泰子、和泉雅子、山口百恵が歴代ヒロインを演じたほか、演劇や放送劇にもなっている。

 角川文庫版あとがきには、「朝日評論」が創作欄を新設するにあたり、新人の力作を探しており、若杉に白羽の矢が立った経緯と、同様に教師と女生徒の恋愛物語として名高い「若い人」の作家石坂洋次郎からは“「若い人」に比べ文章や思索の感覚が洗練されている”などのコメントがある。

自筆草稿「シナリオ作家と私」「松竹か大映か」

自筆草稿「シナリオ作家と私」「松竹か大映か」
【自筆草稿「シナリオ作家と私」「松竹か大映か」】

 映画「エデンの海」は、昭和25年松竹により初公開されたが、最初は東宝が、次に新東宝が映画化を試み、その権利が切れるにあたり、松竹、大映の2社が権利を争った。映画会社に加えて、原作者である若杉や脚本家に関わる権利や思惑、さらには、監督や主演の人選も重要な問題となっており、この作品の人気の高さとともに、一つの作品が映画化に至るまでの映画界の動きも興味深く描かれている。
(資料No.7488 自筆原稿「シナリオ作家と私」、
資料No.7818 自筆原稿「松竹か大映か」)

『エデンの海』文化書院 昭和22年

『エデンの海』文化書院 昭和22年
【『エデンの海』文化書院 昭和22年】

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青春前期−「エデンの海」を経て

 「青春前期」は昭和28年の「講談倶楽部」6月号から13回にわたって連載され、昭和29年6月の連載終了後に講談社から単行本として刊行され、映画化もされた。

 暴行され傷ついた高校生奈津子と、一見不良っぽいが純粋で正義感のつよい同級生武志が、迷い悩みながら懸命に生きる道を探っていくストーリーは、戦後世代といわれた当時の十代の若者たちが精一杯生きていくための反逆や夢が代弁されており、当時の読者たちに熱い共感を呼んだという。

 そのような背景のためか、映画化にあたっては、主役を講談倶楽部誌上で大々的に公募している。所蔵資料には、オーディションの様子を撮った写真を多数収めたアルバムのほか、映画化の際のチラシ、批評記事なども含まれている。映画のチラシでは、「青春文学の異色作家 若杉慧の傑作映画化。思春期の子女を持つ親と若い人に警鐘をならす必見の問題作!」と煽り気味のコピーもあるが、新聞記事には、「主題(若杉慧の小説)がはっきりしている」「性典もののいやらしさがない」など概ね穏やかな表現がみられる。

自筆原稿「青春前期」

自筆原稿「青春前期」
【自筆原稿「青春前期」】

(資料No.1349文章「老いたる性メモ」(裏面:「青春前期」)

『青春前期』講談社 昭和29年

『青春前期』講談社 昭和29年
【『青春前期』講談社 昭和29年】

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前期の著作

 若杉慧は50代に入ると石仏に関心を寄せ、しばしば旅に出るようになる。そのため若杉作品については、50代のはじめ、すなわち小説の大部分が発表されるまでを前期とし、それ以降の石仏関係の活動が主体となってくる時期を後期と大まかに区分することができる。

 昭和4年、最初の妻マサコの死は若杉慧を文学へと駆りたてた直接の要因であった。この時「この女の一生を小説として必ず書こう」と決心した若杉は、横光利一の「春は馬車に乗って」の一節から思いついたという「若杉駒四郎」のペンネームで作家を志す。翌年「椎ノ木昭五郎」、さらにその翌年の昭和6年に「庭與吉」とペンネームを変えて作品を発表、昭和7年には田中マス子と結婚する。この頃から同人誌などでの執筆活動が活発となり、前期の中でも敗戦までは、大正期の山村を舞台に、主人公である寺の伴僧の息子信楽と、住職の息子一乗の中学受験を描いて芥川賞候補となった「微塵世界」や、明治維新頃の神戸事件をもとに、切腹する武士の姿を冷徹な描写で描き、同じく芥川賞候補となった「淡墨」をはじめ、「ひそやかな飼育」「青色青光」などの純文学的な作品を多く残している。その中でも「淡墨」は川端康成らに高く評価されたが受賞には至っておらず、またどの作品集にも収録されていない。また、「青春前期」に代表されるような、青春ものと呼ばれるタイプの作品は戦後に書かれている。

自筆原稿「『ひそやかな飼育』あとがき」

自筆原稿「『ひそやかな飼育』あとがき」
【自筆原稿「『ひそやかな飼育』あとがき」】

(資料No.539自筆原稿「『ひそやかな飼育』あとがき」)

『ひそやかな飼育』庭與吉(若杉慧)著 昭和9年

『ひそやかな飼育』庭與吉(若杉慧)著 昭和9年
【『ひそやかな飼育』庭與吉(若杉慧)著 昭和9年】

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「愛の静脈」

 『愛の静脈』は昭和29年「婦人倶楽部」1月号より12回連載された後、昭和30年に単行本として刊行された。この「愛の静脈」は子を残して先だった美しい妻の追憶にいきる旧師矢吹の心の支柱となるべく、後妻夕子が一人称で語っていく愛の葛藤の物語である。これは若杉慧の書いた戦後の小説の中でもっとも私小説味の濃い内容と言われており、いつかは「この女の一生を小説として必ず書こう」という若杉の決心どおり、作品での先妻は、結婚後1年で亡くなった最初の妻、野村マサコをモデルにしている。

 「愛の静脈」の原稿は、比較的多く残されており、他の文章の裏面が創作メモとして使用されているものもある。また、日活映画で和泉雅子が主演する旨の台本もあるが、映画化は実現されていない。NHK松山放送局でラジオ放送として計画された「梗概」もあり、青春小説の中にも、深く人間の心理を描いた力作として評価されている。

自筆草稿「愛の静脈」

自筆草稿「愛の静脈」
【自筆草稿「愛の静脈」】

(資料No.766 メモ「石塔草文」表面:「愛の静脈」)

『愛の静脈』大日本雄弁会講談社 昭和30年

『愛の静脈』大日本雄弁会講談社 昭和30年
【『愛の静脈』大日本雄弁会講談社 昭和30年】

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「野の仏」と後期の著作

 若杉慧が50歳過ぎて石仏に関心を持ち、次第に石仏の写真と随想へと創作活動の重心が移っていった動機を、それまでの執筆活動と関連付けて述べることは難しい。若杉自身、それまでの作品群と石仏の著作を因縁づけることはできず、野の石仏に対しては何となく引かれ、のめり込んでいった、と語っている。

 ただ、彼の感性を魅了した石仏とは、名もない路傍の地蔵などの庶民の墓標仏であって、 国宝仏や寺院仏のような著名な石仏ではない。また、石仏の素材である石についても、若杉はしばしば「年輪」という言葉を使って、彼独特のイメージを表現している。これらのことから推察すれば、石仏に向けられた若杉の視線は、「石によって作られ、野に立っている人間のようなもの」を見ていたのかもしれない。

 石仏にひきつけられた若杉のまなざしは、旅の中で出会った石仏を収めた膨大な写真と、文章を付した『野の仏』を出発点とする一連の著作群を生み出し、文学的情緒性にあふれた独自の世界を築いていった。

「寛永雪地蔵」

「寛永雪地蔵」
【「寛永雪地蔵」】

「原爆子育地蔵尊」

「原爆子育地蔵尊」
【「原爆子育地蔵尊」】

「猫柳春光仏」(その一)」

「猫柳春光仏」(その一)」
【「猫柳春光仏」(その一)」】

いずれも『野の仏』(昭和33年)掲載
(資料No.12698 写真「石仏写真 創元社版 野の仏全揃」より)

自筆草稿「寛永六地蔵」

自筆草稿「寛永六地蔵」
【自筆草稿「寛永六地蔵」】

(資料No.405「寛永六地蔵」)

自筆メモ「石にたいするイメージ」

自筆メモ「石にたいするイメージ」
【自筆メモ「石にたいするイメージ」】

石にも年輪がある…この言葉が私は好きで…との書き出しで、石と彼の関係を象徴する文章。
(資料No.960「石にたいするイメージ」)

『野の仏』(東京創元社 昭和33年)

『野の仏』(東京創元社 昭和33年)
【『野の仏』(東京創元社 昭和33年)】

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文壇と若杉慧−交遊の作家たち

 文壇における若杉慧は、所属していた同人誌「文芸首都」や「日暦」を基点とする多くの交友関係があり、当館所蔵資料のなかにもいろいろ興味深いものがある。

志賀直哉

 結婚問題に悩み、昭和3年に志賀直哉邸を訪問し、その後、昭和7年に「志賀直哉氏訪問記」として発表、文学者としての一歩を踏み出す。
所蔵メモの中にも、「私が小説を書きはじめの頃、お経のように読んだり写したものは」として、志賀直哉の『暗夜行路』をあげている。

 今回寄贈資料の中にも、志賀の研究書と共に『暗夜行路』前半を書写したものがある。 文学を志すにあたり、強く志賀を意識していたことが伺える。

書写原稿「暗夜行路」

書写原稿「暗夜行路」
【書写原稿「暗夜行路」】

志賀直哉著「暗夜行路」の前半部分を書写した原稿用紙385枚を製本したもの。
(資料No.3794文章書写し「『暗夜行路』前編」)

島尾敏雄

 神戸尋常小学校時代に若き教師、若杉慧が綴り方を担当した教え子。その後、昭和24年、神戸で再会し、互いに文学者としての交遊がはじまったが、島尾は若杉を終生「先生」と呼びつづけた。その親交の一端は、島尾の小説「日は日に」の中にも、神経を病む妻との関係に疲れ、家族で若杉家に泊まり込み、野仏の撮影についていったことなどが描かれている。

 一方で、若杉の著作には「島尾敏雄への私情」があるが、作家二人の視点の違いも興味深い。

 共著書『文学・石仏・人性−若杉慧論』は若杉慧を研究する上で、欠かせない重要な評論集。同書の帯に「石仏の“つや”をなめるようにして撮る若杉氏をみて、その先が怖ろ しかった」との島尾の若杉評もある。

自筆原稿「島尾君との出会ひ」

自筆原稿「島尾君との出会ひ」
【自筆原稿「島尾君との出会ひ」】

(資料No.7723〜7723-5原稿「神戸小学校教師時代の若杉と生徒島尾の出会い」

陳舜臣

 やはり神戸時代の教え子にあたる陳は、5年生の一年間、若杉から図画を教わった。

 その交友は、「文芸広場」25巻1号に掲載された若杉慧の文章「陳舜臣への祝詞」に詳しい…君の受け持ちではなかったが、文集の編集を私(若杉)がしていたため、君(陳)のことは記憶に残っていた。推理小説なんかに身をやつさないで森鴎外系の歴史小説を書いてもらいたい。君にはできる。…激励と同窓会などでの陳の武勇伝を披露している。

 また、陳舜臣もエッセイ「わが師の恩」(『神戸わがふるさと』講談社 平成15年 収録)で、作家となった後に若杉宅を訪ねたところ、献呈した自著に朱線が引かれており、若杉から説教された、というエピソードを披露し、「文章を書くとき、たえず若杉先生の赤鉛筆を念頭に置いた。」と記している。

三島由紀夫

 三島由紀夫選集第14巻に「潮騒評」という解説を書いている。作品の解説というよりは、三島の人物評に近い。三島は、若杉の夫人が経営する銀座のバー「るびこん」の客でもあっ た。昭和45年11月に彼が自決した際の新聞記事切り抜き等がいくつかまとめてある。それと共に、自筆メモ「三島の死因」、書写「三島をうたふ」などもある。

大岡昇平

 昭和18年頃、神戸時代からの交遊。『大岡昇平全集』(中央公論社 昭和49年)第5巻の月報に「大岡君との交遊」を書いている。文中には、「…この友情は一生忘れぬだろう…」とも。「俘虜記」を読んでその感想を記した若杉慧の表紙絵付きの原稿や、また「野火」について、などの自筆メモ、大岡昇平著「母」「父」の書き写し原稿も所蔵している。

自筆メモ「『俘虜記』を読んで」、書写原稿「父」、「母」

自筆メモ「『俘虜記』を読んで」、書写原稿「父」、「母」
【自筆メモ「『俘虜記』を読んで」、書写原稿「父」、「母」】

(資料No.1051文章「『俘虜記』を読んで」、
資料No.7313書写原稿「『父』大岡昇平」、
資料No.7314書写原稿「『母』大岡昇平」)

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文章修行

 若杉慧は文章修行時代、先人の小説を多く書き写し、その文体を勉強している。

 「私が小説を書きはじめた頃、お経のように読んだり写したりしたのは…」と書いているように志賀直哉の文学に傾倒し、「暗夜行路」前編を書写している。他にも、「チェーホフとモウパッサン」(ラブリン/著 寮金吉/訳)など多くの書写原稿が残されている。

 また、原稿は若杉慧自身の分類によると、メモ、腹稿、草稿、清書の段階があり、何度も推敲が重ねられていた創作の過程がうかがえる。

 昭和49年に刊行された『文学・石仏・人性−若杉慧論−』は、吉本隆明、島尾敏雄らが、縦横に論じた若杉慧研究書である。初期には、私小説など純文学を書き、ついで『エデンの海』など青春ものに移り、次第に小説を離れて、石仏に傾倒していく若杉慧を鋭く分析し、その文学性を論じている。その中で島尾敏雄は「あの『野の仏』を書いた時期というのは、先生にとって、非常によかったんじゃないかと思う。その時期を自身では文学を休んだあるいは文学を放棄した時代というふうにとらえられているとしたら、そうではなく、ずっとずっと、文学であり、小説を書いているのも野の仏を撮ったのも同じことだという気持ちでやっていかれるといい」と若杉に対する深い理解を示した。若杉はこの書を綿密に検討し、「川」第1号に「文学・石仏・人性への応答−あるがままの文学−」と題し、70歳に至った自身の文学論を記している。

書写原稿「チェーホフとモウパッサン」「先人 の言葉」

書写原稿「チェーホフとモウパッサン」「先人 の言葉」
【書写原稿「チェーホフとモウパッサン」「先人 の言葉」 】

(資料No.7311書写原稿「チェーホフとモウパッサン」、
資料No.7316書写原稿「先人の言葉」)

「夜ひらく谷 製作日記ノート 1・2」

「夜ひらく谷 製作日記ノート 1・2」
【「夜ひらく谷 製作日記ノート 1・2」】

(資料No.036「夜ひらく谷 製作日記ノート (一)」、
資料No.037「夜ひらく谷 製作日記ノート(二)」

自筆草稿「文学・石仏・人性への応答」

自筆草稿「文学・石仏・人性への応答」
【自筆草稿「文学・石仏・人性への応答」】

(資料No.7180原稿「文学・石仏・人性への応答」)

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「長塚節素描」−石仏から文学への回帰

 五十歳頃より旅を好み石仏の撮影をはじめ、その方面の著書が多くなった若杉慧であるが、昭和47年の70歳頃、若い頃より惹かれていたという長塚節の評伝を同人誌「日暦」と「茫」に連載を始め、文学へと回帰する。

 長塚節の小説「土」と短歌を中心に、その生涯を緻密な考証によって粘り強く書き上げたこの評伝は高く評価された。連載終了と同時に第3回平林たい子賞評論の部を受賞し、昭和50年に講談社から単行本として刊行されている。

 若杉慧は、この評伝の執筆にあたり、実に多くの資料を集めている。長塚節の小説、短歌関係の単行本、同人誌、地方史誌などの書籍や地図、書など、約200点の資料をすべて読み込んだ。書籍には書き込みをし、フィールドワークによって検証も行っている。

自筆メモ「要項目 本一 第一部『土』の周辺」 「『長塚節素描』の要項目箇条書き」

自筆メモ「要項目 本一 第一部『土』の周辺」 「『長塚節素描』の要項目箇条書き」
【自筆メモ「要項目 本一 第一部『土』の周辺」
「『長塚節素描』の要項目箇条書き」 】

(資料No.1602「要項目 本一 第一部『土』の周辺」、
資料No.1737「『長塚節素描』の要項目箇条書き」)

自筆原稿「序章 長塚節と私」

自筆原稿「序章 長塚節と私」
【自筆原稿「序章 長塚節と私」】

(資料No.1609 自筆原稿「序章 長塚節と私」)

『長塚節素描』(講談社 昭和50年)

『長塚節素描』(講談社 昭和50年)
【『長塚節素描』(講談社 昭和50年)】

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