浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」後期 第2回「領内を巡り歩く広島藩主」を平成30年12月15日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。
第2回「領内を巡り歩く広島藩主」
講師:福山市歴史資料室 片岡 智さん
江戸時代、各藩の藩主は参勤交代で国元に戻った時に、領内の視察・鷹狩り・墓参りなどを行っていたようです。今回は、広島藩主やその兄弟、隠居した元藩主などによる領内視察の理由や政治的意味、また地元領民が行った接待の様子などについて、古文書資料を読み解きながら、お話をされました。
取り上げた資料は主に、第7代藩主重晟(しげあきら・隠居後は少将)、第8代藩主斉賢(なりかた)、重晟の弟である長包(ながかね・友之助)に関するものです。
(1) 鷹野(たかの・鷹狩り)
江戸時代には、鷹及び鷹を使って獲った獲物などを、贈答儀礼として将軍が藩主に下賜したり、諸大名が将軍へ献上することがよく行われていた。また、藩主やその近親者と家臣との間でも饗宴(もてなし)儀礼のために鷹野を行っていた。
鷹野(鷹狩り)とは、飼いならして訓練したハヤブサやオオワシなどを使って、鳥や小動物などを捕まえること(狩猟)で、もともとは軍事訓練として行われていた。獲物としては、ウサギのような小動物から、鯉などの魚もあったが、雁(かり)や鴨(かも)などの水鳥が多く、鶴が最高級とされていた。江戸時代を通して行われたが、5代将軍綱吉の時に出された「生類憐みの令」により一時期中断している。
資料によると、重晟や斉賢は鷹野(鷹狩り)のために、廿日市や西条、本郷などに行き、友之助は江波、新庄、五日市などに行ったようで、藩主などが鷹野(鷹狩り)を行う範囲としては、西は玖波から東は本郷あたりまでだったと考えられる。
(2) 国廻り(巡見)
国廻り(巡見)とは、新たに領地を受け継いだ藩主が、領内を視察することをいい、遊覧や鷹野とセットで行う場合もある。近親者や隠居した藩主が領内をめぐる場合は、遊覧が主となっている。
国廻りの範囲として、斉賢の場合を見ると、奥郡(吉田、庄原、西城など)、倉橋島、佐伯郡、山県郡など郡単位で巡見し、藩内を隅々まで廻っているわけではないようである。
少将(重晟隠居後)は名所を巡り、友之助は浦方や島しょ部などを巡っていることが資料からわかる。
以上のように、領内巡見・鷹野は単なる物見遊山ではなく、領民に迷惑・負担を掛けず、藩主の威光を高め、政治的な意図をもった視察でもあった。
【関連本】